特別寄稿:【写真で見る】被災地とわたし/あの日

【写真で見る】被災地とわたし

司法書士法人UNIBEST
岩白啓佑

2021年3月11日、日本列島を襲った未曽有の大災害「東日本大震災」から10年が経ちました。
当時テレビから流れてくる映像はまるで映画の中の世界のようで、とても現実のものとは思えませんでした。

「東北の子どもたち」という言葉への違和感

その後、テレビでは連日震災のことばかり取り上げていましたが、少し時間が経つと、有名人の方が訪問した、炊き出しをした、寄付をした、といった類のニュースが増えてきました。
まだ司法書士になる前、20代の若造だった私は、テレビに映る有名人が「東北の子どもたち」という言葉をやたら多用することに非常に違和感を覚えました。
「東北の子どもたちのために」「東北の子どもたちの笑顔が」…。
当然、被災して苦しんでいるのは子どもだけではありません。
何となくそこに、「とりあえず子どもたちと言っておけば印象がいいだろう」という偽善的なものを感じ、その言葉を使う有名人に嫌悪感を覚えていました。

自分の傲慢さ、恥ずかしさに気づく

ところが、ある時ふと思ったのです。
自分が嫌悪感を抱いている「東北の子どもたち」と言う人たちの多くは、復興支援のための何かしらの活動をしている。
だからテレビに映って報道されているのです。もちろん、その活動自体が彼らのイメージアップのための偽善的なものである可能性はゼロではありません。
ただ、内心はさておき、少なくとも被災地のために行動している。
では自分はどうだろう?部屋でテレビを見て、実際に活動している有名人を偽善的だと批評し、嫌悪感を抱いている。何一つ行動していないくせに。
そんな自分が心底恥ずかしくなり、一人暮らしの六畳一間で大変沈んだ気持ちになったことは、今でも強烈な印象で私の中に残っています。

被災地へ行く決意と挫折

その後、無事に試験に合格し、司法書士となった私はある情報をキャッチします。
被災地では、街が壊滅し、多くの人が亡くなったにも関わらず、様々な資料も失われてしまった結果、土地の相続関係の整理がつかず、復興が進まないという問題がありました。
そこで、その道のプロである司法書士に白羽の矢が立ち、復興庁の臨時職員として3年の任期で現地に赴く人材が募集されたのです。
2014年春、私はこれに手を上げました。これは大変に勇気のいる挙手でした。
自分自身、まったく知らない土地で、これまでとまったく異なる仕事につく不安はありますし、被災地に赴くというだけで周囲には心配をかけます。方々への説明も一苦労でした。
しかし、その後一向に連絡がない。たまりかねてこちらから復興庁へ連絡したところ、この取り組みは実質的に動いておらず、誰も現地に派遣されていないとか…。
有志の思いを踏みにじる酷い行政だ!とそのときは訝りましたが、今思えばまだ相当に混乱していた時期だったのかもしれません。

震災相談員としてのスタート

あの一人暮らしの六畳一間で感じた自分の大変な傲慢さ、恥ずかしさに一矢報いる機会は失われてしまった…と一旦は気落ちしたものの、気を取り直し、私は東京司法書士会の震災相談研修を受け、震災相談員として、いよいよ被災地との関係をスタートさせました。
こちらでは、年に数回被災地の仮設住宅をまわって被災者のお話を聞く活動をしてきました。
これも貴重な経験になりましたが、ここ数年で仮設が一気に減り、2019年を最後にこの取り組みにも呼ばれなくなりました。
それは喜ばしいことではありますが、やはり語り部がいないと風化してくもの。震災10年を契機として、私なりに微力ながら語り部となるべく、ここから先は被災地を訪れた際に現地で撮った写真を紹介していきたいと思います。

【2014年】

<宮城県気仙沼市>


平時は穏やかで素敵なところです。
少し前までは、写真に写っているような船が、内陸に乗り上げていたとのことでした。


海に近づくと、ご覧のとおり、津波で建物が流された跡が残っています。
周囲には復興の象徴か、いくつも新しいショッピングセンターのような建物が建ち始めていました。


青色の印は気仙沼に限らず、被災地のいたるところでみることができました。
自販機があの高さです。あの高さまで波が押し寄せたなんて、ちょっと想像がつきません。

<岩手県大船渡市>

巡回する地域によっては、大船渡市の「大船渡プラザホテル」に泊まります。
こちらも港のすぐ近くのホテルで、被災しております。
3階まで津波がきたといいますが、私はこのときは3階の部屋に泊まりました。
この部屋が海水に浸かったのかと思うと…なんともやるせない気持ちになりました。


ホテルの近くの通り。
何もありませんが、ここには市街地が広がっていました。
商店街があった通りになります。


ところどころ、津波の傷跡を残す建物がまだ残っていました。


気仙沼、大船渡に限らず、私は震災相談に行った際には必ず朝の散歩で港へ寄ります。
一番、津波の傷跡が多く残っていて、かつ復興の兆しが見えやすい場所であるというのもあるのですが、どこの港も本当に静かで美しいのです。
朝ぼやけと波の音と船が揺れる音と海鳥の声とずっと遠くに聞こえる工場の稼働音。
非常に落ち着いた気持ちになれます。


とはいえ、やはりまだまだ、津波の爪痕が生々しく残っていました。


東北の港では、いかに津波の威力がすごいかを思い知らされます。

<岩手県陸前高田市>

実は陸前高田市という名前は、数ある被災地の地名の中でも、私の中で一番印象に残っていたところです。
当時のニュースの声が今も鮮明に耳に蘇ります。
「陸前高田市は、ほぼ壊滅状態です。」
ひとつの市が、まるまる一個壊滅状態になる。まったく想像がつかず、私の中に大きなインパクトが残りました。


一見、山や海岸を切り開いて開発が進んでいる工事現場に見えます。
しかしここは、陸前高田市の中心市街地だったところです。


地盤を固めるための盛土作業を行っていました。
山から切り出した土を平地に運ぶため、ベルトコンベアが縦横無尽に設置されています。
まるで火星にきているような感覚になります。


慰霊の祠にお参りしたあと、その前にあった当時の状態を残す工場らしき建物を見物。
今はこの建物は撤去されたそうです。


慰霊祠から見えたガソリンスタンドの看板。
右下端が壊れていますが、あの高さまで波がきたということです。まったく想像できません。


かの有名な、陸前高田の一本松。
もともとは、豊かな松林が広がっていたそうです。


初めて来た私のために、同行した方が車で市街地を回ってくれました。
市街地?そうです、こちらは陸前高田市の中心市街地です。
レンタカーのカーナビは震災前のものだったので、走行中、小さな画面上には確かに街が広がっていました。


この建物を見るとわかりやすいですね。
4階までは壊れていますが、5階は無事でした。この建物は遺構として残すそうです。

【2015年】

<岩手県釜石市・大槌町>


何度も言います。東北の港は、平時は本当に静かで美しいところです。


釜石の港では、大きな堤防が建設されていました。
次に訪れた際には完成していて、復興を感じるスポットとなりました。


震災相談員による仮設住宅巡回風景(寒そうですね。実際このときは天候にも恵まれずかなり寒い回でした。)。
相談を聞くというよりも、被災者の方のお話を聞く、ということへ重点をおいて活動しています。
様々な壮絶体験のお話を聞くことも多く、胸が苦しくなります。
仮設住宅をまわるということは、会う人全員が間違いなく家が津波で流された人たちで、さらにかなりの割合で震災で家族を亡くした人たちです。
相談員たちは、身の引き締まる思いで巡回しますので、何度行っても終わるころにはぐったり疲れます。


震災相談を数年続けていますが、仮設住宅に住む小さな子供をよく見かけます。
時期的にも、その子たちはおそらく自分の本当の家を知らない。
仮設住宅しか知らずに成長しているんだろうな、と想像できます。
生まれてから知っている自分の家は仮設住宅のみ。もはや「仮設」と言えるのだろうか、と疑問に思いました。

<岩手県大船渡市>


仮設商店というものがあります。
街が消えてしまっても、店が仮設でも、力強く生きている人たちのパワーを感じます。


先ほど紹介した大船渡の海ですが、半年後にはもう立派な堤防ができあがっていました。
心強いですね。ただ、美しい港が見られなくなったのは少しばかり残念です。

【2016年】

<岩手県宮古市>


名所である浄土ヶ浜。非常に美しい海です。
朝早かったのですが、観光客もちらほら。


営業している施設の壁に、被災当時の写真が貼ってありました。
こちらも、津波の凄さを物語っています。


現在は立派に営業中です。

【2017年】

<岩手県大槌町>


こちらは何の写真がおわかりでしょうか?
津波で建物が流された跡…いいえ、こちらは仮設住宅が撤去された跡です。
この頃から復興住宅(被災者居住用のしっかりしたマンション)への引っ越しや仮設住宅の集約が多くなり、仮設住宅の撤去がところどころ見られるようになりました。
その中で私が見た第1号になります。
もちろん、全員が復興住宅に移れたわけではなく、他の仮設に移っただけの入居者もいますので手放しには喜べませんが、復興への大きな一歩には違いありません。
まさに復興を象徴する一枚だと思っています。

終わりに

当然ながら、ここにご紹介した他にも、写真も伝えたいことも、山ほどあります。
天国の死者と話ができるという、かの有名な「風の電話」を訪れたときの、あの受話器の重さ。側に置いてあったノートに書かれた、訪れる人たちの悲痛な叫び、願い。
また、誰もが認める復興の象徴である釜石のラグビー場・釜石鵜住居復興スタジアムに立ったときの感動。
残念ながら台風の影響で同スタジアムでのワールドカップ開催は叶いませんでしたが、その時の悔しい気持ちはなかなか言葉にできません。

思えばこの10年、四六時中といえば嘘になりますが、ことあるごとに被災地へ心を通わせていた気がします。現地で実際に苦しんでいる人たちや、私なんかのように時々行って話を聞く程度の人間よりもさらにフルコミットして頑張ってらっしゃる方々からすれば、それこそ偽善的に聞こえるかもしれません。実際そうだと思います。
それでも、このような寄稿をして少しでも私が感じた現地の風をこちらにも吹かせたいという思いを抱いた今の自分は、何もせずにテレビの前で実際に動いている人たちを批判していたあの頃の自分と比べれば、胸を張るほどのものといえばおこがましいですが、恥ずかしいものでもないと思っています。

被災者は仮設住宅から復興住宅へ移っても、実は復興住宅では自死が多いという問題があります。
仮設で築いた長屋的コミュニティが消え、壁が厚くなることで人との距離を感じるのが原因だとか。
課題はまだまだ尽きません。私にできることはほんのわずかなことですが、今後も被災地の動向は注視し、心だけでも通わせ続けられたらと思います。

あの日

司法書士法人UNIBEST
久保田純史

あの日、私は茨城県の北浦にかかる鹿行大橋にいました。

湖を横断する、古くなった橋の架け替えのため、橋の50メートルほど横に並行して設置された仮設足場で、測量士として、新設する橋設置のための測量作業をしていました。

地震発生時、仮設足場は立っていることができないほど大きく揺れましたが、足場よりも大きな被害を受けたのは、すぐ横に見える、車が行き交う古い橋のほうでした。

橋は、揺れに耐えることができず、湖の真ん中、60メートルほどが、運悪くその場を通行中だった車1台もろとも、湖の中へ崩落していきました。

湖に落ちた車には、男性ひとりが乗っていましたが、水の圧力でドアを開けることはできず、逃げ出すことができません。

私は、男性を閉じ込めたまま、ゆっくりと、ゆっくりと、水の中へ沈んでいく車を、50メートル離れた湖の上で、なすすべもなく、見つめていました。

何日もたったあとで、男性の遺体が引き上げられたことを、テレビのニュースが伝えていました。
今朝、震災10年のニュースを見て、改めてあの光景を思い出しました。
震災後の社会の混乱と、その中で自分が目撃してしまった出来事によるトラウマも、まざまざと蘇ってきました。

あの日を境に、私の中では間違いなく何かが変わりました。
日本に暮らす多くの人たちが感じたのと同様に。

災害、復興、防災、絆、、、それ以前には耳にすることが少なかった沢山の言葉を日常的に聞くようになりました。

それまで信じていた社会の在り方は確かなものではなく、ある出来事によって、一瞬にして一変するものだということを、実感として感じるようになりました。

10年が経ち、今、世界はコロナ禍の真っ只中です。

私自身の感覚としては、自分の信じる世界のかたちは不安定なもので、何かをきっかけにして変わっていくものだということに気づいた、あの経験をもとにして、今起きている社会の変化を素直に受け止めて、受け入れることができているような気がします。

「風化」という言葉を言葉を聞きます。
震災の事実についての記憶は、確かに年々薄れているかもしれません。
しかし、10年前の出来事を経験した私たちの中には、間違いなく「何か」が残っていると信じています。